ひなのや
代表 玉井大蔵さん
田舎の美しさ、豊かさを認め伝える
ポン菓子“メーカー”への道

石鎚山を見上げる四国山地の裾野に位置する愛媛県西条市丹原町。四国山地から流れ出る豊かな水に恵まれ、古くから米麦・大豆などを中心とした水田農業や果樹、畜産など1次産業が盛んな地域です。この地でつくられる米を原料としたポン菓子(愛媛県では結婚式の引き菓子として代表的な昔懐かしいお菓子、パン豆とも言われる)をつくっている「ひなのや」代表の玉井大蔵さんにお話を聞きました。
―まずは経歴からお伺いできればと思います。ご出身は丹原ですか?
そうです。新鮮な野菜や果物が買えると人気の「周ちゃん広場」という産直がありますが、その辺りが実家です。小・中学は地元の学校へ通い、子どもの頃はかけっこでオリンピック選手が夢だなんて言っていましたが、だんだん現実を見るようになってきて、高校を卒業して金沢の大学に進学しました。

柿畑を抜けるとこぢんまりした農家風の店舗が見える
―そこからどのような道へ?
いざ就職活動となった時に具体的なビジョンはなかったのですが、部活動で陸上をずっと続けてきたので、スポーツメーカーに興味がありました。ミズノのシューズがいいとか、アシックスがいいとか、子どもながらにあるじゃないですか。漠然としたメーカーへの憧れ(笑)。スポーツメーカーは受けたのですがなかなかうまくいかず、東京に本社がある電機メーカーに就職しました。半導体の営業など5年くらいやり、そろそろ30歳が見えてきたぞ、という頃に転勤を命じられました。会社員なので仕方ないのですが、学生時代から過ごしてとても好きな街、金沢から違う場所に行かなきゃいけないと思うと嫌になっちゃって。親父に電話をしたら「帰ってきて家業をやるか?」ということになり、地元に戻りました。
―家業は何をされていたのですか。
おじいさんの代から農機具店をやっていました。地元に戻ってからは農家さんへ営業に回ったり。その頃に営業先でお客さんが高齢でもうお米を作れないから、代わりにつくってほしいという相談を受けるようになり、「じゃあ、やってみるわ!」ということで僕も3、4年ぐらいお米をつくっていました。
―なるほど。そこからポン菓子につながっていくと。
コンバインやトラクターは扱えるのでお米はつくれるようになりましたが、もちろんそれで食べていける訳ではなく……。そんな頃、農業の6次産業化というのが聞こえてくるようになり、自分のつくったお米で加工品をやってみようと思ったんです。色々と考えましたが食品ロスが出るのが嫌で、賞味期限や初期費用を考えて、あまり期待せずにポン菓子を始めました。

腹の底に響くようなドーンという音でポン菓子ができる
―最初の販売ルートは?
近所の産直、周ちゃん広場に置いてもらいました。最初はプレーンのお砂糖味だけだったのですが、それだけでは面白くないから、違う味もやってみようかなと。アイデアとしてはキャラメルポップコーンをポン菓子でやってみたらどうかな? ぐらいです。当時はパッケージにこだわりはなく、ただ袋に入れて生産者のシールが貼ってあるだけでした。
―売れ行きの方はいかがでしたか。
無名の、ただの玉井大蔵として出していたのですが意外にも売れまして……。平日に5000円売れて週末が1万円売れる。ざっくり1ヶ月で20万円でしょう。これ、なんとなくいけるんじゃないかなっていう予感がしてきて。そうすると調子に乗ってくるんですよね。
「ひなのや」商品がフルラインナップ。グラノーラやナッツ入りのものも。
―と言いますと?
スポーツメーカーに憧れる少年・大蔵です。ミズノやアシックスみたいなブランドになりたくなっちゃって。付加価値を付けるとかブランド化とか、はじめはそこまで考えていなかったのですが、とりあえずカッコつけるために名前も付けなきゃいけないし。
―そこで「ひなのや」ができるんですね。ネーミングの由来はなんでしょう?
都会の美しさは「みやび」、田舎の美しさは「ひなび」という言葉をある人に教えてもらいました。当時、会社を辞めてUターンで丹原に帰ってきたということが、実は心の中でコンプレックスになっていたんです。ローカルからローカル(金沢→愛媛)ですから、都落ちという言葉が正しいかどうかは分かりませんが、その頃の気持ちを包み隠さずに言うと、このままでは自分自身がダメになってしまうんじゃないか、焦燥感を感じていました。「みやび」の洗練された美しさに比べて、「ひなび」は野暮ったさがあるような気になっていて、いつまでも都会と比べて生きていくのは嫌だし、なんか違うなと。田舎でも美しいものは美しいし、いいものはいいぞっていうことをしっかり認めて伝えていかないと、という思いを乗せて、屋号を「ひなのや」としました。
―そこから「ひなのや」のポン菓子が多くの人に知られるようになったきっかけは何でしょう。
2011年ごろでしょうか。壬生川駅近くのお土産物店に置いてもらっていたところ、県外のセレクトショップのバイヤーさんが四国のお菓子を探しているということで、持ち帰り評価してくれたことがきっかけです。その店舗の飛躍とともにうちの商品も全国に広がっていきました。
丹原本店では、テイクアウトのドリンクなども提供
―味のよさはもちろん、総合点だと思いますがヒットのキモは何だったのでしょう。
商品そのものというよりも、昔からある、みんなが知っている駄菓子を新解釈したというところが一番のポイントだと思います。ポン菓子って、みんな絶対に食べたことがあるんです。でも、しばらく食べてないぞっていう絶妙な空白期間をもっている。そこで、ふとしたタイミングでパッと出会うと見違えるようになっていた。例えるならば、「小学校の時のあの子が素敵になっちゃって〜」みたいな再会です。お値段も、あまり安くはないけど買えない訳ではないし、実際に食べたら美味しかったという評価でしょうか。
―懐かしさと新しさの消費者心理に絶妙にハマったのですね。
ポン菓子という商品自体がもつ特徴に大いに助けられました。あと、お米だから地のものを使えるというのがいいんです。当初は自分でつくったお米でしたが、今は地域の農家さんと契約して仕入れています。栽培時のこだわりはもちろん、収穫後も低温保管庫で貯蔵して鮮度を保ち、その年の新米を使い商品をつくっています。収入の面でも喜んでいただけますし、やっぱりお米自体の品質がいいんです。
また、味付けもできるだけ国産の安心安全な素材を選んでいます。しかし、国産やオーガニックなどの要素にこだわりすぎると、美味しさや楽しさを後回しにしてしまうことにもなるので、バランスを見ながら良い素材をチョイスしています。もちろん、私たちは愛媛の会社ですから、伊予柑やかぶせ抹茶など、できる限り愛媛の個性豊かな味わいを皆さんにお届けしたいと思っています。
併設の「ひなのやのちいさな図書館」。京都の書店、誠光社セレクトの絶妙なラインアップは必見
―とはいえ、都会のセレクトショップでポン菓子が並ぶようになるまでには、さまざまな工夫や努力があったのではないでしょうか。どのような思いで商品と向き合っているのでしょう。
私自身、何かのプロという訳でもないですし、同業者の知り合いもほとんどいません。興味があるのは、人の営みや土地の歴史・文化や暮らしのことです。業界のことはあまりよく分かりませんが、大切にしているのは、「どうすればお客様に喜んでもらえるか」ということ。ポン菓子をどんな場所でどのような方がお買い求めになって、どこで誰と食べるのか。その場合に最も喜ばれる味、形、デザインは何か。「懐かしい、健康に良さそう」以外の価値、愛媛の丹原でつくっている「ひなのや」だからこそのメッセージが伝わるかな、ということを考えています。キャスティングをしている映画監督のような気持ちでしょうか(笑)。
―お客様からはどのような声が聞こえてきますか?
都会の方からは、他のお菓子では感じたことのない、「ふっと心が緩むような感じがする」と言っていただくことがありました。田舎の会社だからこそ醸し出せる味わい、雰囲気を感じ取ってもらえれば嬉しいです。地元のお客様は里帰りしてきた子どもたちに持たせるとか、地元らしいお菓子をお土産にしたいと買って行かれる方が多いです。壬生川駅前店ができて2024年2月で10年になりました。まだまだメーカーとは言えないかもしれませんが、ようやく地元のお菓子として根付いてきたかなと嬉しく思っています。
―これから挑戦してみたいことやビジョンはありますか?
先ほどお話ししたように、「ひなのや」の事業の軸として「みやび」と「ひなび」の対比というのがあります。これから大切にしたいのは都会と田舎の2拠点のバランス感です。洗練された都会の感覚に憧れることもありますし、物流や利便性では大都市圏が有利ですが、都会の生活リズムや消費のスピードは、僕たちからすると早すぎると感じる部分があります。田舎で農業に関わっていると、「お天気にはどうも敵わない」という感覚が身につくのですが、暮らしと経済のバランスをとり、人間の身の丈に合った生活をするということが、日本社会の成熟度を上げることにつながるのではないでしょうか。
また、最近は丹原の魅力を発信し、豊かな農村風景を100年後につなげていきたいという気持ちで、地域の仲間たちと「CREW TAMBARA」という会社を立ち上げました。僕たち大人が楽しんで取り組んでいる姿が、未来の何かにつながっていければいいなと思っています。